努力
努力とは、"目標の実現のため心身を労して努めること。ほねをおること"らしい。つまりはつらーくくるしーいことのようだ。
ならば、生きているだけで辛く苦しい思いをしている人たちはみな、"努力"しているのだろうか??
これには当人達からはYesだろうし、それ以外からはNoという答えが返ってくると思う。そのように感じる原因を探りたい。
まず、検索して出てきた文に焦点をあてたい。
目標の実現のため
心身を労して
努めること。
ガイジだから努めるの原義がよくわかんなかったんで調べた。
つまりはこう。
努力とは
目標の実現のため
心身を労して
力を尽くすことである。
個人的に腑に落ちなかった。
目標の実現のため ←主観的
心身を労して ←主観的
力を尽くすことである。←主観的
なんだこれはたまげたなぁ…。
努力というものは表現者各人によってバラバラに規定され得るものであって、明確な基準を持ち得ない。
目標はその人の状況次第、心身を労しているかの基準もその人の感覚次第、力を尽くしたかもその人の感覚次第ってわけだぁ。
このことが、当事者とそれ以外の人間の間での齟齬の原因となる。
俺は頑張ってる、俺は良くやってるという感覚
何処かで感じたことがあるはず。努力したのに報われないという感覚である。努力が足りない、頑張りが足りないなどと言われることも僕にとっては珍しいことではなかった。
これはどうやら、他人が対話なしに目標を把握するのが難しいこと、他人が自分の心身の状態を把握するのが難しいこと、他人が力を尽くしているかを判断する基準が乏しいことにある。
実験
4歳児が、4km歩いて母親の職場にたどり着いた。
新入社員が、4km離れた職場に徒歩で通勤している。
どちらがより努力したでしょうか?
感覚的には疑いようもなく4歳児でしょうね。
これはなぜなのか探っていきたい。
世界を生きていると、社会社会に根ざした概念みたいなのがやはりあって、
この年齢ならこういう経験をして、こういう状態にある。この年代の人は、こういう経験をしてきた。
みたいな認識を社会全体で共通して持っているのがわかる訳だが、おそらく努力の価値判断は一般的にその社会全体で共通の認識をもとに行われていると思う。個々人により多少は差異があると思うが、認識を仕入れる先が社会なので、十分社会共通認識に近いと思われる。
つまり4歳児という単語を見て、4歳児ころの幼児に対する社会共通認識を想起して、それから価値判断すると思われる。
実験
4歳児が、4km歩いて母親の職場にたどり着いた。
半身麻痺の新入社員が、4km離れた職場に徒歩で通勤している。
どちらがより努力したでしょうか?
こうするとちょっと微妙になってくる、と思う。
実験
義足の新入社員が、4km離れた職場に徒歩で通勤している。
半身麻痺の新入社員が、4km離れた職場に徒歩で通勤している。
どちらがより努力したでしょうか?
これも微妙だ。
価値判断に迷いが生じる。少数故に、彼らの日頃感じる認識が社会共通認識の中に薄く、このとき、個人の実感、主観が強くなった認識で価値判断していると思われる。
比較することは多分無理だ。
少数側の気持ちは少数側になったやつにしかわからんと思う。
とりあえず努力の価値判断をやめてくれ
多様なバックグラウンドが個々人にあり得る以上、努力の価値判断は無意味ではないか?
誰かが誰かの努力の価値判断をするのって意味があるのか?
目標達成度で評価する分にはいいだろうな。
0か100かで評価するのはあんまりだから100やらなきゃならない目標なら100細分化すればいい。判断基準もブレないし。
ただ目標はよく吟味して設定しなくちゃならんが。
努力の価値判断をしていいのは自分だけだと思う。自分の持つ価値観と、目標と、それがどれくらいきついかと、どのくらい力を尽くさないといけないのか正当な判断をしてあげたらいいと思う。
他人にどうこう言われて気にするのは無意味だ。認識に致命的なズレがあるんですから。
それでも他人に評価されたい人へ
自分のバックグラウンドを他人に知ってもらわないと正当な判断を下しては貰えないだろうという話を長々としましたが、まずは相手に詳しく話す必要があるでしょう。足がない、腕がない、みたいにわかり易い状態でないなら尚の事です。
伝え方は、医師に自分の症状を説明するように淡々と。泣き落としとか情に訴える系の方法はどこか嘘くさくなります。もし怪我や病気なら、医師の診断をそっくりそのまま伝えるのもいいかもしれません。
多分一番かんたんでわかりやすいのは"目標を達成すること"なんですけどね。
多くの方はわかりやすい納得しやすいものを好みますからね。他人のバックグラウンド聞かされてそれを全部受け入れる頭をみんながみんなお持ちじゃないんです。だから勧善懲悪ものが流行ったりするんですけど。