悪意

人間を不愉快に思うのは、悪意を向けてないかの如く悪意を向けるからである。人間を不愉快に思うのは、直接悪意を向けてくるからである。これは、どちらも俺の中に沸き立つ感情で、どっちも正しいと思う。

前者は、人のことをコソコソ叩くやつが嫌いだという意味。ズルイのだ。基本的に。もちろん俺もそうだから、自分自身のことは嫌いである。後者は、人に直接悪意をぶつけられるやつは図々しくて嫌いだという意味。当たり前だ。何が目的でそんなことせにゃならんのだ。

悪意というものは大変厄介な癖に、日常生活に溢れているから本当に嫌いだ。ネット世界だから〜とかそういう次元の話ではない。現実が、悪意に満ちている。純粋無垢を染め、生きるものに嫉妬し、俺の中で常に表に出る機会を伺っているのがわかる。毒舌なんかになりたいんじゃない、悪意を抑えるのに必死なのだ。

何気ない会話の中で、自分が経験した話を何気なくしたとしよう。まず、ここで経験した話は大概、自慢話に区分されると思う。これは悪意目線からだ。何気なく、自分のした珍しい経験を語る。何気なくってところが最高にあくどい。何気なくで、自分を大きく見せようという話題のチョイスも最悪だ。俺は自己嫌悪感に苛まれる。聞き手はどう思うんだろう、行き過ぎた話になっていないかなど気を遣う。おそらく何気ない会話の題材のうちの一つであり、相手はそれ以上の価値はないと思うだろう、というふうに考える。悪意的に考えるならば、遠回しにアピールをしてくるゴミ人間、しかも露骨になり過ぎないようにする念の入れっぷりだ。相当性格悪いに違いないぞ、と相手はこう思ってしまうだろうと俺は思う。

疲れる、、、

何をしても無駄なのだ。悪意の、悪意によるこじつけからは逃れる術がない。

本当に困っているとき、救いの手を差し伸べてくれる人がいたとする。「大丈夫?手を貸そうか?」悪意的に捉えるならば、この言動は、状況に疲労、辟易し、弱った自分の状況を確認してから、優位にたとうとマウンティングするかのような行為である。挙句、人助けアピールで、自分の株を上げることも忘れない。最悪だ、こんなこと考えてるやつの手助けなんて受けてられるか。

遊びに誘われたとしよう。「今日暇してる?」友達の非常に少ない諸兄にとっては嬉しい誘いなのかもしれない。これは悪意的に解釈するとこうなる。「お前はやることもなく、いつも暇してるんだから今日も暇だよな?友達付き合いもまともにできないお前をせっかく誘ってやってるんだから絶対来いよな。」ああああああああ不快だ。俺が暇だと誰が決めた。これもマウンティングだ。相手より優位に立ちたいという人の本質から溢れてきた害だ。

こんなモノの見方で生きていれば考え方が捻くれたり暗くなるのも当たり前だ。俺はロリコンだし友達が少ない。早く死にたいと思っている。早く死にたいと思っているのに、行動に移さないで生にしがみついているのが許せない。せめて寿命を短くしよう。煙草を吸う。

考え過ぎだという批判は受けない。というか受けられない。考え過ぎだ、と発言された瞬間に悪意によって、あ、こいつは普段から大したこと考えずに生きている奴なのかな、と半ば見下したような認識の仕方になるからである。

もうたくさんだ。疲れた。